鮮やかな青色の座席がずらりと並ぶバスに乗っていた。通路側の席。周囲には自分と同じ学校の生徒。私の右隣にいる子供は立ち上がって前の席にいる友達と話していて、私は少し退屈していた。
周囲を見回して、誰も彼もが自分以外の誰かと騒いでいるのを見て、肘置きに肘をつき唇を尖らす。
すると、前の席にいた人物が通路に身を乗り出して来て、振り向いた。そこにいたのは祖母だった。あれ、何でいるんだっけ婆ちゃん、と思いながらも、ボロボロになった歯をむき出した満面の笑みにへらりと笑い返す。
まばたきした瞬間祖母の頭から血が垂れて、口の中まで真っ赤にそまった。
ハッともう一度周囲を見回すと、バスの窓にも座席にもびったりと血が滴っている。全て、先程まで笑っていたクラスメイトたちの血。座席の一つ一つに生徒の死体。車内に生きているのは自分だけ……いや。
バスの前方。通路に灰色のスーツを着た男。その手には血の滴る包丁。
こちらを振り向こうとしている。
息を呑む。
目が醒めた。
しばらく自室の真っ白な壁を見つめている間に思考が取り戻されてくる。
「夢……」
やけにスプラッタでホラーな。
まだ激しく打つ心臓のあたりを抑えて起き上がる。すぐに身動き出来ず、いくらかぼんやりと布団を見つめる。
怖い夢を見た原因は分かっていた。昨晩ホラー映画を見たせいだ。幼い頃は平気だったはずなのに十を過ぎた頃から怖いものに対してめっきり耐性がなくなった。それでもたまにうっかりしていたり好奇心に負けたりでホラーを題材とした映画や漫画などを見ると、必ず悪夢を見る。昨晩は好奇心に負けた。SNSでもずいぶんと評判の良かったホラー映画の初めての地上波放映だったから、スマートフォンで実況を見ながら、つい。映画は評判に違わぬ面白さ、そして怖さだった。
ちなみに悪夢の内容は、映画とは全く関係ない。
少しして悪夢の記憶も薄れて落ち着いてきたので、腹も減っていたが、先に風呂に入ることにした。昨晩風呂に入らずにホラー映画を見てしまったから。
風呂やトイレが怖いのは、水のある場所を幽霊が好むからだという、どこで聞いたのだか分からない話を思い出す。理屈はよく覚えていないし、他の話と混じっている可能性もある。
そんな話よりももっとうなずけるのは、風呂とトイレが一日の中で最も無防備になる瞬間だから、という理由だ。
普段はさして考えもしないが、ホラー映画の記憶がまだ残っているせいで、急にその無防備さに落ち着かなくなる。
その不安は想像力を豊かにし、豊かになった想像力は――存在しない恐怖の対象を練り上げる。
体を洗ってから髪を洗うのが私のいつもの手順だった。体を洗っている最中は怖い夢のせいで強張っていた体がほぐれていくのが気持ち良く、いつもよりいくらか丁寧に隅々まで洗う。
しかし、シャワーの蛇口をひねり、髪を洗うため頭を下げた時。
――目をつむると、どうも頭上に何かいるような気がした。
それは風呂場の白い天井に浮かび上がる、無表情の顔。幸の薄そうな女。不美人でもないのに頬が痩けていて、色褪せた唇は割れて血まみれ。傷んで切れ切れになった長い黒髪にふちどられた、真っ白い顔。
髪を洗っている私を、ただじっと見ている。
ちょっと天井を見た。真っ白で、何もない。けれど目を上げるその一瞬前にも何もいなかったといえる保証もない。
髪を洗っている間ずっと天井から自分を見つめる女に苛まれ、出来る限り無心で、いつもより少し急いで洗い終わった。顔を上げた時、ふと、曇った鏡が目に止まった。
背後で、歯をむきだしにして笑う顔だけの女。
手をのばして手のひらで鏡を拭った。当然そこには何もなかったけれど、綺麗になったその箇所に何か自分以外に動く何かが映りそうな気がして、そっと目をそらした。
風呂に入っているのにぞくぞくと寒気がした。さっさとタオルで体を拭く。
この家の風呂場の扉は中折れ戸になっている。扉はざらついて曇っており、向こう側がぼやけている。
そこに影があるような気がして、私は取っ手をつかんだまま固まった。
この曇った扉の向こうには男が立っている。灰色の肌をした男だ。目は一見小さいが二重。いくらか硬そうな髪質。生え際が後退していて、全体的に毛量が少ない。通勤時間帯の駅に行けばいくらでも見つけられそうな顔。ただ、妙に生気がない。それに扉のすぐそばに立っている。
扉を開けようとすると、男の体にぶつかる。俯き加減の顔が徐々に上げられて、乾いた目が、私を見上げる。
見られる。
思い切って扉を開けたが、当然何もいなかった。薄暗いいつもの部屋だ。
考え過ぎ、という自覚はあるのだ。リビングに戻ってタオルで髪を拭きながら、また何か想像しそうになって慌てて無心になる。それから、本棚に手を伸ばした。こういう自分と付き合って二十年近くになるので対処法は分かっている。暗くて怖い想像を打ち消すような明るい本や映画を見ればいいのである。だが、お気に入りの漫画に指をかけた時、押し入れの扉が細く開いているのが目に入った。
真っ暗で奥は何も見えない。
あの奥にも、よく何かがいる。
三角座りをする子供。体操着を茶色く汚したのは土だけではない。背格好は五歳くらいのように思えるが、うつむいていて顔は見えない。ゔ、ゔ、ゔ、と耳障りな蝿の羽音が絶えず聞こえる。
唯一、青黒い痣の残る細い腕だけが、暗がりに白く浮かんでいる。
じっと見ていると、その腕が蛇のようにのびて来て、骨に皮が貼り付いたように細い指が私の腕をつかむ。硬直している内に顔が上向く。けれど、そこには何もない。目も鼻も口も。木のウロそのもののような顔。暗いから見えなかったのではなく、最初からそこには何もなかったのだ。
子供が腕をつかむ指に、力を込める。
少しドキドキとして、押し入れを閉じるために立ち上がった。取っ手に手をかける時、押し入れの隙間から手がのびて来そうな気がしたけれど、何もなかった。
安堵しながら椅子に戻るけれど、まだ落ち着かない。背後に気配があるような気がする。
一歩一歩、音を立てずに近づいてくる男。ぶつぶつと何か言っているけれど聞こえない。聞こえないけれど確かにその男が何を言っているのかは分かる。ゔ、ゔ、ゔとまた蝿の羽音がする。男の声と混ざり合う。
振り向いて、背後にいるそれの姿を見てしまったらおしまいだ。
けれど、真っ暗なテレビに映っている部屋をふと見れば。
肩の上に顔がある。
「……はぁ」
私は小さく縮こまって、スマートフォンを手にし、秘蔵の猫フォルダを開いた。