「あ……ナツナさんだ」
栗色をした前髪の隙間から覗く大きな目と、目が合った。
クラスメイトの環波留。前髪に目が隠れているのと表情に乏しいせいで一見すると暗い雰囲気があるが、男性アイドルのように整った顔立ちをしている。
だが、彼には顔の良さも打ち消す異常性があった。得体の知れない葉っぱを売り捌いていたことがあるとか、中学時代には教師を殴ったとか殴られたんだとかいう真偽不明の噂だけならばまだいい。彼にはその噂に真実味を与えるような様々な奇行がある。授業中に突然窓から飛び出していったり、民族衣装で登校して来たり、全身に打撲痕を作っていたり。全て夏奈自身が目にしたものだ。
入学してから一ヶ月、対面で話したことは一度もないが印象は悪い。また単なる不良というよりは、得体の知れない不審者という印象が強かった。害意はなくとも何をしでかすか分からぬ危険人物。
教師ではなかったことは喜ばしいが、また別の厄介の気配がする。お近付きになりたくはないが、声をかけられたのに全く無視するのも憚られ。
「な、なつな?」
おっかなびっくり応える。ただ、そもそも言葉の意味が分からない。「なつな」という単語に聞き覚えがない。
「ナツナさん。違ったっけ――名前」
名前と付け加えられなければ、きっと延々聞き返していた。
「あぁ名前。読みが違う。夏と書くけど、読みはカ」
「カナさん?」
いきなり名前呼びされるのも妙な気分だと思ったが、名字で呼べとも言いにくい。
「まぁ、そう。……環くん、自己紹介の時にいなかったね、そう言えば」
字しか見ていないのなら「ナツナ」の誤読も有り得る。何故入学式の日に行われた自己紹介の場にいなかったのかは不明だが触れず、ひとまず改めて挨拶しておく。
「今更だけど、嘉納夏奈と言います」
言葉の締めに迷って、ひとまず「よろしく」と会釈をした。噂や素行を見る限り出来れば遠ざけておきたい人物だが、さりとてこの場で機嫌を損ねるのも恐ろしい。
環は暗闇にいる猫のような目で夏奈をじろじろと見た後、嬉しそうに笑った。嬉しそうにしか見えないのだが、何が嬉しいのか全く分からず気味が悪い。
「ナツさんって呼んでいい? 俺がハルだから。何となくほら、統一感が出る」
「統一感?」
「あとはアキとフユか。どっかに居ないかなー」
「……はぁ」
環は後ろ手に図書室のドアを閉めた。パタンという軽い音が響く。夏奈は閉ざされた扉を凝視するが、環は物珍しそうに図書室を見渡していて夏奈の視線には気づかない。
「……図書室なら使えないよ。こんな有り様だし」
「図書室なのか、ここって」
それすら一見して判別出来ない有り様なのである。
「本借りれないな、これじゃあ。何でこんなことになってんの?」
真面目に答えれば、この学校の体質に加えて、数年前に学校に隣接して出来た市の図書館が原因だと思われる。この学校は増改築を重ねており、区画によってはまるで別の学校のように設備が異なる。この図書室を含む区画は取り分け酷い。校舎の増改築の候補から外され続けたためにあらゆる設備が古い。数年前で既にそんな状況だったのに、その上に学校から徒歩一分の上に蔵書は豊富、年中エアコンが効いていて夏でも冬でも快適な図書館が出来れば、生徒がそちらに流れていくのは必然である。
「ま、いいや。本借りに来たんじゃねぇんだ。今ちょっと、逃げてんの」
元々貸し出し処理をするのに使われていたと思しきカウンター代わりの長机の上を雑に払って腰かけた。夏奈が乗ろうとすると少し飛び跳ねなければならない高さだが、環には脚を軽く重ねるくらいの余裕があった。
「ナツさんはこんな所で何してんの?」
聞き流しにくい言葉があったような気がしたが、無視していいものか。夏奈は窓に寄りかかり、答えつつ考える。
「本を読んだり、たまに勉強したり。静かではあるから……」
厄介事かも知れないと思いもしたが、結局好奇心に負けた。
「それより逃げてるって何?」
「聞いてくれんの?」
ぐいと前のめりになる環にやはり聞かなければ良かったと後悔する。「聞かない」と答えようかと思ったが、環は返答を聞かずに話し出した。先程はさらりと何でもないことのように言っていたくせに、実は聞いてほしくて堪らなかったらしい。ただ、その話は唐突で、何を言いたいのか理解しがたい。
「濡れ衣なんだよ。俺じゃねぇって言ってるのに鬼の奴全然聞かねぇの。まぁ俺の日頃の行いのせいなんだけど、だからって生徒のこと最初から犯人だって決めてかかるってのもどうなんだよ。酷くない?」
「待った待って。何? ……濡れ衣?」
「ほら、この下の窓割った奴」
その言葉でやっと理解に手がかかる。
古かったせいなのか知らないが、上手く警報装置が作動しなかったため、発覚したのは今朝だった。理科室の窓が一枚割られていた。犯人は不明。現状備品等で盗まれた物はなく悪戯と考えられているが、教室に置きっぱなしにしている生徒の荷物までは把握しきれていないので確認しておくように。理科室で行う授業は通常通りに執り行うが、業者の都合で修理は明日以降。理科室に行くことがあっても割れた窓には近づかないように。
「そう言えば、朝のホームルームで先生が言ってたような」
今日は理科室での授業はなく、理科室に行く用事もなかったので聞き流していた。他にも何か言っていたかも知れないが記憶にない。強いて言えば、担任の話を聞いた隣の席の友人が「どうせ環でしょ」と不愉快そうに耳打ちしてきた覚えがある。友人と同様、「鬼」――というのは教師の大谷のことだろうが、教師大谷が環を窓を割った犯人だと疑ったらしい。
「今回は完全に無関係なのに決め付けて来やがって。腹立つなバカ鬼」
環は床に踵を振り下ろした。まさにこの教室の下が理科室である。だが、現場が真下であることよりも、併設されている理科準備室に教師がいないか気にかかる。理科準備室は三橋という科学教師に私物化されていて、授業のない時は大抵いるらしい。床に踵を打ち付ける音のせいで図書室に人がいることがバレてしまうと困るのだが、環の神経を逆撫でしたくもない。迷った末に注意出来ず、恐る恐る話の先を促す。
「……つまり、逃げてるっていうのは、大谷先生から?」
「そ。職員室でじっくり話そう、とか言って。話すって俺が犯人かどうかじゃなくて、反省の言葉がほしいだけのくせして。大体アイツ、俺の話聞いたことなんて一遍もねぇし。ウザぇったら全くさぁ」
鬼というあだ名からも分かるが、教師大谷は非常に厳しい。またその厳しさは誠実さの表れではなく、単に怒りっぽく、見栄を張りたがりなだけだ。環でなくとも大谷を好きな生徒は少ない。
「突き出すなよ」
苦笑いしていると鋭く睨まれて、息を飲む。即座にうなずいた。
「しないよ。私もあの先生は苦手だし」
環に特別敵対感情がある訳でもないし、突き出すメリットもない、加えて、環はどうも気づいていないようだが、夏奈にも図書室への無断侵入という秘密がある。今回の件には関係ないが、どこからバレるかも分からない。余計なことはしない方が無難だ。
ただ、と内心で呟き、ドアを見た。今のところ開く気配はない。けれど、いつノックがあるか──あるいは環のように前触れなしに開かれるか、分かったものではない。夏奈が何もしなくても、他の誰かが「図書室に入っていく環を見た」と密告する恐れはある。その時教師に一緒にいる場面を見られたら、妙な勘繰りをされかねない。
窓から背を離して、椅子のそばに置いていたバッグを座面の上に置いて、バッグに机の上に置いていた本とペットボトルを仕舞い込みながら告げる。
「と言うか、そういう事なら私は帰るよ。ごゆっくり」
「えっ帰んの?」
途端に環はカウンターから降りると猫のようにするする足元の障害物を避けて寄って来て、夏奈の手首をつかんだ。
「何で。ダメ。居てよ」
咄嗟に手を振り払ったのは、環が嫌いだったからでも、怖かったからでもなく、ただ驚いただけだ。思い切り振り払ってしまったことに夏奈自身驚いて固まってしまうくらいだった。
だが環はいたく傷ついた顔をすると静々と離れていき、カウンターにぺたりと座る。足を揺らしながら床に目を落とす。叱られた犬のように悄気げた様子に罪悪感が湧かなくもないが、それよりはまだ驚きの方が強い。謝るような気にはなれなかった。
「びっくりした……」
無意識に手首をさする。環はますます項垂れて、顔の前で手を合わせた。
「ごめんなさい。馴れ馴れしいってよく言われる。気をつけてるんだけど」
「いや別に、驚いただけで。あの……はい。こちらこそ、大袈裟で」
環は重ねた手の後ろからひょっこりと顔を出した。
「やっぱり帰っちゃう?」
憎めない顔をする。
「帰らないでほしいなって」
「何で」
「……話し相手がほしいというか」
理性では男子高校生に許される態度だとは到底思えないのだが、顔が良いせいで許してしまう。
あれだけ悪い噂や奇行が多いのに彼が孤独にはなりきらないのは、環を取り巻く人々はこういう一面を知っているからなのか。敗北感を伴った納得。
座面に置いていたバッグを見下ろし、ため息をつく。
「……もう少しいるよ」
単なる罪悪感というよりは、大いに毒気を抜かれてしまったからだ。椅子からバッグを下ろし、椅子に横向きに座ってテーブルに頬杖を突くと環に向き直った。
「で、何。話って言っても……」
クラスメイトではあるが、環との間に共通の話題など見つけられる気がしない。そもそもこの状況で何を話題にしたものか。とりとめもなく考えるが、環には考えがあるらしい。
「それもそうだけど、聞いてみたいことがあって」
朗らかに言った。
「窓を割った犯人のこと。何か変な感じがしてさぁ。ナツさんは誰が窓、割ったんだと思う?」